心霊体験…の前に、霊能について。

暑いですね…。納涼のため、またぞろ、自分の体験を記します。

…今は、嫌気がさしてしまって、ほとんどやっていない、スピ系の「ワーク」。いろいろとあります、親しみやすい、というか、横文字を使って、灌頂とかでなく「アチューンメント」とか、「行」ではなく「ワーク」、「鑑定」でなく「セッション」…軽くなりますね、まさに「ライトワーク」! まあ、いいです。

私、手をぬけない性質なんですね。

今となると、ライトな、お手軽な取り組み方だと、何やってもダメだ、という身もふたもない見解になっていますので、そういうのが嫌な方は、お付き合いいただかないほうが、お互いにとって有益です、悪しからずお願いします。

で、「ワーク」とかでも、手を抜かないでやり込んだら、一時期、いわゆる「霊能」みたいなものが出てきて、いやはや、苦心しました。

正直な話、頭のどこかの回路がイカレていたんだと思え、「もう少しヤバくなったら、精神科に行こう。たぶん、病棟で一生暮らすことになるだろうな…」と、考えていました。

のちに、ガチの霊能者、という方々に、たまさか、次々と邂逅する、という奇妙な時期があり、そのときに、彼らの語る、「どのように”見える”」のかとか、「どのように”聞こえる”」のか、とか、「それを祓う(というか、ご退場願うとき)にはどうしているか」などの実際を聞いて、私の自分の体験や感覚・把握したものが、妄想ではなく、「本筋」だったことを知りました(ありがたくもなんともない。)。

彼らのように、ほとんど先天的に、そういうものを携えてしまったのと異なり、「ワーク」などで、後天的に、そうしたものが発露する、というのは、過去の事例を見ても、よろしくないものです。

バグが出た、とか、回路がショートした、とか、あるいは、深いところの膿が出た、とも言えるかもしれません。

こうした状態からの復活は、非常にきついものとなりますが、ある意味、自業自得ですから、やり抜くしかありません。

意志力や論理性、体力その他を、底上げしないと対処できません。

そういう時間というのは、もったいないです。自分で自分の状態が、まともでないのは十分わかっていますから、それを他人に察知されたくないから、人との関りをなるべく避けるようになるし、自分の言動のチェックが厳しくなるあまり、性格がきつくなるし(これも直すの面倒)、ほとんど潜伏している犯罪者みたいな心境なのではなかろうか…

さて。

今となると、こうした体験が「遠い昔」と感じられます。

努力の甲斐もあって、霊能的なものは、すっかり消えてしまい、非常に現実的でアクティブなおじさんに成り代わりましたが、ほめられたものではありません。。

…くだらない体験を長々と書いてしまいましたが、参考になった人とか、ひょっとしたら、いたりするのか、あんまり自信がありません(ごめんなさい)。

内観。

少し間が空きました、お久しぶりです<m(__)m>

今回は、昔からあるメソッドの「内観」について、個人的な感慨を述べてみたいと思います。

最近では、「心をきれいにする方法」というので、私がこれを習っていた頃より、うんと手軽にトライできる環境が整ってきているように思えます(その実態がどういうものか、寡聞にして知りません)。

私の場合、うつ病の苦しみ(というか、うつ病そのものの苦しみもさることながら、うつ病がもたらす苦しみの方が大きかったりもします)から解放されたくて、この方法を、かなり突き詰めて行った時期がありました。

結論から申しますが、この方法は、効果があります――ただし、しっかりした指導者に正しく教わり、真剣に行うのなら、という条件がついてしまいます。

そんなことを言うと、身もふたもないのかもしれませんが、ほかのあらゆるジャンルと同じで、真剣さと謙虚さ(はじめのうちは、双方とも「ある程度」で良いです。やっていくうちに、それが深まれば…)がないと、それなり以上の効能は得られません……

つまり、内観は奥が深いんです。

私は、これのほんの初心のあたりで、やめてしまいました。

その理由はというと、「浮気性」です。ほかの、、もっとお手軽で、もっと苦労のない、もっとタイパに優れた・・・早い話、この前、本に書いたようなメソッドの方に、宣伝につられて、移ってしまったのです。

その結果として、ある程度の成果が出たかもしれないけれど、その後、ふつうに生きていれば経験しなくても良いような、どうにもならない思いを味わう羽目に陥りました。

…少し前に知人に教えられて、「かつて神だった獣たちへ」というアニメーションを見て、つらい思いをしたことがありますが、このアニメのタイトルにふさわしい人たちと、立て続けに遭遇したのも、何の因果なのか……

話を内観に戻します。

内観を、そのときの自分のベスト、といえる熱心さでやっていくと、びっくりするほど、自分も変わるし、周囲も変わります。自分が世界の主人公だ、というのを、自覚できるようになるわけです。

また、感謝の気持ち、というものも、本来のそれを、思い出すことができます。

…思い返してみると、内観には、良い思い出ばかりあるんですねえ……

その後、タッピング関係に迷い込むきっかけとなった、とんでもない事態があったのですが、それについては、書く気にはなれません……

そんな経験を踏まえて、また、あくまでも、現在の内観がどのようなものなのか知らない人間からの発信だと思ってください。特に、これから内観をはじめようか、と思っている方は。

内観は、じっくりと取り組めば、取り組むほどに成果が出ますが、それに費やす時間や成果には、個人差があります。

でも、ある段階を越えてしまうと、能力や才能、個人差みたいな世界をぬけて、誰もが生まれ持ったところに入れます。

なので、他人との比較を止めた方が良いです。過ちのもとです。

私が、ほかに浮気したのも、他人を気にしたからですし、そのために、たいへんな回り道をすることになりました。

回り道をしてしまうと、時間と手間と、お金がかかる(爆)。時には、どこかに行ったまま、帰ってこられなくなってしまいます(家族がいたら、もう悲劇です。)。

よろしくね☆

インスタントはダメだ…(2)

今日もよろしくお願いします<m(__)m>

この前の本で紹介しましたタッピング技法は、効果が高いものとして、推奨できます。

しかし、その他のメソッドはちょっと…特に「エネルギー」関連は、初期のころと比較すると、根幹になっている部分が相当に変質しているので……

この話は、このあたりにします。

自分には、スピリチュアルのジャンルで、何かを成し遂げようという思いがないから。

私の先生だった方も、そうだったように記憶しているのですが(ナチュラルスピリット社の存在すらご存じなかったし…)、急激に変容されたのかもしれません。

話はタッピングに戻ります。

その後の様々な体験からも、肉体に接触する技法は、端的にリラックス・弛緩を誘導しやすいし、やり方によっては、深いコミュニケーションや、それこそ「癒し」を、比較的容易に達成できるようです。

その代わり、労力が大きく、時間もかかります。

ですが、特別な資質を持って生まれたわけではない私のような人間には、そのあたりで十分だと思えます。

広範囲にわたる多数の人間に、それこそ「エネルギー」だけで、深い癒し効果を与えることができる、となると、歴史上でも、かなりレアな存在の聖者に限られてきます。

そういう方たちは、そのような力を行使できるかもしれませんが、そのための「代償」を払っています。「この世」で生きる以上、「この世」のルールは曲げられませんから(それこそ、「陰陽五行」などの話となるでしょう)。

異能を駆使しながらも、そうした「ルール」をスルーしているように見える人(それは不可能なのですが、一見、ある時点では、そのように見えたりする)もいます。

残念ながら、どうやら昔から、そういう人の背後なのか、内側なのか、よくわかりませんが、そこには、その人の本質ならぬ、得体の知れないスピリット的な「何か」が、まことしやかな顔をしているようです…

…これはもう、悲劇ですが、ある意味、変な欲望を専らにすると、「よくあること」のようです……

さて、タッピングなのですが、原稿と仕事、あと当時、施設に入っていた母の介護の資金繰りなどで、滅茶苦茶な生活を送っていた私は、ある時点で、タッピングをはじめとした、メソッドを、すっぱりと辞めてしまいました。

繰り返しになりますが、このあたりの消息については、今は詳述しません。

ですが、健康・資産ふくめ、自身の人生が日に日に、ボロボロに崩壊していくなかで、「これはどうかしている」と思わないほうが、どうかしているでしょう…。

「とにかく、この原稿は終わらせよう。契約したのだから」と決めました。

それで、あの本に書いた団体の事務局に数度、「辞める」旨を告げたのですが、受理されません…

今にして思えば、当時の私は、何から何までが、あまりに未熟な状態で、しかも、それを良しとしているところがありました。

たとえば、「姿勢」ひとつを取っても、まともな立ち方すら、出来ていませんでした。そもそも、「姿勢」がどういうものなのかすら、満足に把握していなかった。

それなのに、「自分の姿勢はとても良いものだ」と、なぜか、思い込んでいたのです。

……また、次回に「続き」とさせていただきます。

最後まで読んでいただき、心より感謝します。

「インスタント」はダメだ・・・(1)

本日も、よろしくお願いします<m(__)m>

この前の本の原稿執筆を通して、次から次へと試練が訪れたため、なんとかそれを通過できたのだから、必然的に成長することができました。

その試練の中でも、いちばんキツかったのは、母の死です…

心身ともに疲弊しきっていたときに、急激に体調を悪くした母が、あっという間に逝ってしまった。

…幸い、臨終に立ち会うことはでき、無事、葬儀も終えることもできましたが、こうした人生では一度しかない、深刻かつ重大な出来事も「利用」されたのは、心痛の極みです。

このことについては、またいずれ触れることとします。

前回記しましたとおり、執筆作業そのものが、触れたくない過去の「掘り返し」となったため、自分にとっては、おそろしく負荷の大きい作業でした。

実際、帯状疱疹を発症したりで、入院することが二度ありました。

しかし、仕事もありますし、執筆だけでなく、やらなくてはならないことが、たくさんあったから、入院といっても、一夜のみ。

睡眠時間もまともに取ることができない毎日でした。そんなときに、母が亡くなったのでした…

前回の本に書いた、様々なメソッドとかも、執筆をはじめた当時は駆使していました。

ところが、どんどん状況とか、悪くなっていく。そうしたことを、当時、先生だった方に何度報告しても、何も響かない。

最終的には、「この人、何考えているんだ?」というような内容のやり取りに終始するようになったため、以前から離れていた気持ちが、ついに切れてしまいました…

…本が出た後はもう、「なんでこんなことになるの?」と、笑ってしまうくらいひどい話のオンパレード。

たぶん、あの時点で自らの手で命を終わらせてしまう人とか、いるかもしれません(同じ体験を強いられたとしたら、という、たとえなのですが、不適切だったら、申し訳ありません)。

そうした時も、自分で入り込んだ「流れ」が継続してしまい、心身の苦しみを少しでも軽減したい…と思って、またぞろスピリチュアル世界の人たちと接触していました。

今だったら、絶対に、あり得ないチョイスなのですが、泥沼とはこのことです。

まあ、結果として、傷を深めるばかりだったという、笑うに笑えない事態を招きました。

もし、当時の私のような状態の友人がいたら、今の私なら、まずはちゃんとした病院で体を検査してもらうことと、しかるべき信頼できる筋のカウンセラーなりを予約して、裏付けのある心理療法を受けること、一定の期間、旅行に出てみること、ジムとかと契約して運動すること、食事内容を見直すこと、さらには、睡眠を見直すこと…

などを提案します(危ない状態じゃん、あらためて書いてみると。。。)。

そうすれば、まだ寿命があれば、体がいろいろとデトックスしてくれます。時間を味方にして、養生するほかはない。また、それで事足りるのです。

ところが、当時はそんな常識的なことすら、できませんでした。…そのあたりの消息については、うんざりするので、今は記す気にすらなれません…

思うに、あの本は、出すべきではなかったのではないか。

ちょっとした功名心に駆られ、後には引けない、と勝手に思い込んで(あるいは思い込まされて)、無理を押した結果がこれです。

…次回に続きます。書き直し書き直しで、くたびれました(笑)<m(__)m>

うつ病の話…を書きはじめるにあたって。

よろしくお願いします、ほていさんです<m(__)m>

ほかの話題から行こう、と決めていましたが、どうも、悩まされている方が多いようで、この話がタイムリーなのかな、と思い、記すことにします。

まず、「炎上」などは狙っていないのですが、注意喚起を兼ねて、身を守るために、書かねばいけないことがひとつ。

前、関わっていた「タッピング」の技術(TFTなどの、医療にも用いられているような、高度かつ専門的な内容の技法ではありません。あくまでも、民間療法的なものです)を用いたことで、私が、社会生活が至難といえる「重度うつ」状態から、短期間で完治に至った…という話が出回っているようですが、それは、違います。

おらくは、その話によって利権を得ることのできる人が、意図的に流布したデマに過ぎません。

私が、「社会生活が至難といえるような重度のうつ状態」に陥っていたのは、十七歳頃の、高校二年生の時です。

そして、家庭環境もあって、そのような状態でも私は通学を余儀なくされました。

そのために、心身ともにさらに傷つき、疲弊する深刻な結果を招き、数度の自殺未遂その他、その後の人生を大きく左右する事態を招くこととなりました。

このあたりの「いきさつ」については、後に触れることになると思われますが、最初にまず、はっきり言いたいことがあります。

「重度うつ」という状態に、人が陥るというのは、そうした疾患の経験のない人たちや、そのようになり得ない資質や環境にいる人たちには、おそらく想像できないほどの深刻なファクターが積み重なった結果です。

何が言いたいのか、というと、

そう易々と人様の前で開陳できないような、非常に痛切で、私的な要因に満ち溢れているわけで、そうしたものを、安易に取り扱ってほしくない、まして、目先の欲望を満たすために、セールストークの一環として、虚偽をふくめた軽い弁舌に載せてほしくはないのです。

しかるに、私が通常知りえないところで、「ないこと・なかったこと」が大幅に盛り込まれた話が、なんらかの目的のために展開されているというのは、非常に腹立たしい話です。

今回、うつ病に関する私的な体験に基づいた話をはじめるのは、真相を話し、幻想を壊そうというのがひとつ。

あと、当事者だから語れる(当事者と、そこに利害関係を二の次にして深くコミットした人間でなければ、その人の病状の奥底について、安易に語るべきではない、とさえ、私は思っています)内容と、

どのようにして、たとえ長期にわたったとしても、そこを抜け出し、いわゆる「寛解」したか、という内容を開示することが、

同じような症状や状況その他に苦しむ人たちの一助となるかもしれない、と考えたからです。

いかに寛解した、今は「陽気なおじさん」だ、といっても、ここまで書いてきた時点で、全身に「ブロック」が浮き出し、緊張を強いられる状態となっています。

この前の本を書いたときも、少し「うつ病当時」を振り返ったことで、大きなダメージが出て、刊行後、しばらく不調が続きました。

あれから、さらに進境し、成長し、「うつ病」関連についても、理解を深めたし、治癒も捗りました。

…にも関わらず、今なお、苦しみがかなりあるな、と認識できます……

でも、放置しておくと、良くないことのほうが多そうですから、さんざん、私を苦しめ、足を引っ張りまくった「うつ病」さんに、働いて役立ってもらおうと思っています (笑)

長くなりました。次回は、明後日の予定です。

また、よろしくお願いします<m(__)m>