内観。

少し間が空きました、お久しぶりです<m(__)m>

今回は、昔からあるメソッドの「内観」について、個人的な感慨を述べてみたいと思います。

最近では、「心をきれいにする方法」というので、私がこれを習っていた頃より、うんと手軽にトライできる環境が整ってきているように思えます(その実態がどういうものか、寡聞にして知りません)。

私の場合、うつ病の苦しみ(というか、うつ病そのものの苦しみもさることながら、うつ病がもたらす苦しみの方が大きかったりもします)から解放されたくて、この方法を、かなり突き詰めて行った時期がありました。

結論から申しますが、この方法は、効果があります――ただし、しっかりした指導者に正しく教わり、真剣に行うのなら、という条件がついてしまいます。

そんなことを言うと、身もふたもないのかもしれませんが、ほかのあらゆるジャンルと同じで、真剣さと謙虚さ(はじめのうちは、双方とも「ある程度」で良いです。やっていくうちに、それが深まれば…)がないと、それなり以上の効能は得られません……

つまり、内観は奥が深いんです。

私は、これのほんの初心のあたりで、やめてしまいました。

その理由はというと、「浮気性」です。ほかの、、もっとお手軽で、もっと苦労のない、もっとタイパに優れた・・・早い話、この前、本に書いたようなメソッドの方に、宣伝につられて、移ってしまったのです。

その結果として、ある程度の成果が出たかもしれないけれど、その後、ふつうに生きていれば経験しなくても良いような、どうにもならない思いを味わう羽目に陥りました。

…少し前に知人に教えられて、「かつて神だった獣たちへ」というアニメーションを見て、つらい思いをしたことがありますが、このアニメのタイトルにふさわしい人たちと、立て続けに遭遇したのも、何の因果なのか……

話を内観に戻します。

内観を、そのときの自分のベスト、といえる熱心さでやっていくと、びっくりするほど、自分も変わるし、周囲も変わります。自分が世界の主人公だ、というのを、自覚できるようになるわけです。

また、感謝の気持ち、というものも、本来のそれを、思い出すことができます。

…思い返してみると、内観には、良い思い出ばかりあるんですねえ……

その後、タッピング関係に迷い込むきっかけとなった、とんでもない事態があったのですが、それについては、書く気にはなれません……

そんな経験を踏まえて、また、あくまでも、現在の内観がどのようなものなのか知らない人間からの発信だと思ってください。特に、これから内観をはじめようか、と思っている方は。

内観は、じっくりと取り組めば、取り組むほどに成果が出ますが、それに費やす時間や成果には、個人差があります。

でも、ある段階を越えてしまうと、能力や才能、個人差みたいな世界をぬけて、誰もが生まれ持ったところに入れます。

なので、他人との比較を止めた方が良いです。過ちのもとです。

私が、ほかに浮気したのも、他人を気にしたからですし、そのために、たいへんな回り道をすることになりました。

回り道をしてしまうと、時間と手間と、お金がかかる(爆)。時には、どこかに行ったまま、帰ってこられなくなってしまいます(家族がいたら、もう悲劇です。)。

よろしくね☆

「インスタント」はいけません(1)

本日も、よろしくお願いします<m(__)m>

この前の本の原稿執筆を通して、次から次へと試練が訪れました。

今になって、なぜ、あれほどにキツいことが起こったのか、その理由が見えてきましたが、それについては、今、ここでは記しません…

そうした経験から、いくつかのアドバンテージを見出さなくてはなりません

たとえば、苦難を「学び」ととらえなおすことができれば、本当の意味で「先」に進むこともできるわけです。

……以前の私ですと、手痛い体験・苦難が訪れたら、そこで「メソッド」などを用いて、マイナスの感情を抜き取り、さらに潜在意識を浄化して……ということをしていました。

ところが、今回怒涛のように押し寄せてきた、様々な難題は、そのようなことでは、さばききれませんでした…

私に訪れた苦痛のなかで、いちばんキツかったのは、母の死です…

心身ともに疲弊しきっていたときに、急激に体調を悪くした母が、あっという間に逝ってしまった。

…幸い、臨終に立ち会うことはでき、無事、葬儀も終えることもできましたが、こうした人生では一度しかない、深刻かつ重大な出来事もマーケティングに「利用」されたのは、心痛の極みです。

この件については、またいずれ触れることとします。沈黙する気はありません。

執筆作業そのものが、触れたくない過去の「掘り返し」となったため、自分にとっては、おそろしく負荷の大きい作業でした。

実際、帯状疱疹を発症したりで、入院することが二度ありました。

しかし、仕事もありますし、執筆だけでなく、やらなくてはならないことが、たくさんあったから、入院といっても、一夜のみ。

睡眠時間もまともに取ることができない毎日でした。そんなときに、母が亡くなったのでした…

前回の本に書いた、様々なメソッドとかも、執筆をはじめた当時は駆使していました。

ところが、どんどん状況とか、悪くなっていく。そうしたことを、当時、先生だった方に何度報告しても、何も響かない。

最終的には、「この人、何考えているんだ?」というような内容のやり取りに終始するようになったため、以前から離れていた気持ちが、ついに切れてしまいました…

…本が出た後はもう、「なんでこんなことになるの?」と、笑ってしまうくらいひどい話のオンパレード。

たぶん、あの時点で自らの手で命を終わらせてしまう人とか、いるかもしれません(同じ体験を強いられたとしたら、という、たとえなのですが、不適切だったら、申し訳ありません)。

そうした時も、自分で入り込んだ「流れ」が継続してしまい、心身の苦しみを少しでも軽減したい…と思って、またぞろスピリチュアル世界の人たちと接触していました(爆)

今だったら、絶対に、あり得ないチョイスなのですが。

当時は破れかぶれというか、どうにでもなってしまえ!という気持ちが強くあり、おそらく、「死にたい」と思っていました。

そうなると、事態が好転するわけもありません。

泥沼とはこのことです。

まあ、結果として、傷を深めるばかりだったという、笑うに笑えない事態を招きました。

もし、当時の私のような状態の友人がいたら、今の私なら、まずはちゃんとした病院で体を検査してもらうことと、しかるべき信頼できる筋のカウンセラーなりを予約して、裏付けのある心理療法を受けること、一定の期間、旅行に出てみること、ジムとかと契約して運動すること、食事内容を見直すこと、さらには、睡眠を見直すこと…

などを提案します(危ない状態じゃん、あらためて書いてみると!

わざわざ、得体の知れない潜在意識の大海に潜り込むような危険な真似はしないことです。

もし、それをするのならば、専門的な知識と権威をもち、経験のあるプロフェッショナルと長い時間をかけて、慎重に取り組まないといけません。

ところが、当時はそんな常識的なことすら、できませんでした。…そのあたりの消息については、うんざりするので、今は記す気にすらなれません…

思うに、あの本は、出すべきではなかったのではないか。

ちょっとした功名心に駆られ、後には引けない、と勝手に思い込んで(あるいは思い込まされて)、無理を押した結果がこれです。

…次回に続きます。書き直し書き直しで、くたびれました(笑)<m(__)m>

「過去の持病の話」を書く、ということについて。

よろしくお願いします、ほていさんです<m(__)m>

ほかの話題から行こう、と決めていましたが、どうも、悩まされている方が多いようで、この話がタイムリーなのかな、と思い、記すことにします。

まず、「炎上」などは狙っていないのですが、注意喚起を兼ねて、身を守るために、書かねばいけないことがひとつ。

前、関わっていた「タッピング」の技術(TFTなどの、医療にも用いられているような、高度かつ専門的な内容の技法ではありません。あくまでも、民間療法的なものです…ただ、近年、TFTなどの技法を学んだ方から、「手法が酷似している(TFTなどの発表の方が、かなり先だっています)」という指摘も受けました。そうした点を、調べる時間があれば、また記そうと思っています)。

また、主に、このタッピングを教えている人の方面から、この技法を用いたことにより、私が、社会生活が至難といえる「重度うつ」状態から、短期間で完治に至った…という話が出回っているようですが、それは、違います。

それは、その話によって利益を得ることのできる人が、意図的に流布したデマに過ぎません。

たまさか、タッピングを習いに出かけたときに、きわめて体調が優れなかったに過ぎません。顔つきが暗かったのかもしれませんが、そもそも、健常な状態で、こうした技法を、高額の受講料を支払って、わざわざ受ける人は、かなり少数かと思われます…。

私が、「社会生活が至難といえるような重度のうつ状態」に陥っていたのは、十七歳頃の、高校二年生の時の夏のことです。

家庭環境もあって、そのような状態でも私は通学を余儀なくされました。

そのために、心身ともにさらに傷つき、疲弊する深刻な結果を招き、その後の人生を大きく左右する事態を招くこととなりました。

このあたりの「いきさつ」については、ここでは触れません。

「重度うつ」という状態に、人が陥るというのは、そうした疾患の経験のない人たちや、そのようになり得ない資質や環境にいる人たちには、おそらく想像できないほどの深刻なファクターが積み重なった結果です。

何が言いたいのか、というと、

そう易々と人様の前で開陳できないような、非常に痛切で、私的な要因に満ち溢れているわけで、そうしたものを、安易に取り扱ってほしくない、まして、目先の欲望を満たすために、セールストークの一環として、虚偽をふくめた軽い弁舌に載せてほしくはないのです。

しかるに、私が通常知りえないところで、「ないこと・なかったこと」が大幅に盛り込まれた話が、なんらかの目的のために展開されているというのは、非常に腹立たしい話です。

今回、うつ病に関する私的な体験に基づいた話をはじめるのは、真相を話し、幻想を壊そうというのがひとつ。

あと、当事者だから語れる(当事者と、そこに利害関係を二の次にして深くコミットした人間でなければ、その人の病状の奥底について、安易に語るべきではない、とさえ、私は思っています)内容と、

どのようにして、たとえ長期にわたったとしても、そこを抜け出し、いわゆる「寛解」したか、という内容を開示することが、

同じような症状や状況その他に苦しむ人たちの一助となるかもしれない、と考えたからです。

ただ、あくまでも、それは私自身の、私的な体験に過ぎず、それ以上でも以下でもありません。

そこに出てくる、ある種のワークやメソッドなどを、この場で推奨するつもりは、全くありません。

思春期の大病は、私に、自分と向き合い、自分を理解する作業を結果的に強いる役割を持ちました。

それによって、得るところも多くあるように感じられます。

脱線の多いブログになるとは思いますが、また、よろしくお願いします<m(__)m>